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都心へのアクセスのよいウォーターフロントの新しい街 豊洲・有明エリア

住みやすい街に進化を遂げた、都心に近い人気の街「豊洲」

都心にアクセスしやすいこともあり、ベッドタウンとして人気を集めている豊洲エリア。東京メトロ有楽町線の開通などにより利便性が向上し、住宅街へと発展した。「豊洲」駅には東京メトロ有楽町線とゆりかもめが乗り入れている。有楽町線に乗れば、「銀座一丁目」駅や「永田町」駅など都心にも短時間で行くことが可能。また、「豊洲」駅前はバス交通の拠点となっており、「東京」駅や「門前仲町」駅、「とうきょうスカイツリー」駅などに向かうバスがある。 かつてこのエリアには、石川島播磨重工業(現・IHI)の造船所などがあり、工業地帯として機能していた。

近年は、産業構造の変化により工場群が移転。跡地の再開発により誕生したのが、「アーバンドック ららぽーと豊洲」など大型のショッピングセンターや「豊洲センタービル」などのオフィスビルだ。周辺エリアでもマンションなどの開発が進み、現在も発展を続けている。豊洲エリアの西側では、「豊洲市場」が整備され、2018(平成30)年に築地市場から移転を果たした。

計画的に造られた街ならではの利便性「有明」

江東区有明は、ゆりかもめ「有明」駅、東京臨海高速鉄道りんかい線「国際展示場」駅周辺に広がる。臨海副都心では1990年代から段階的に開発が行われ、国内最大のコンベンション施設である「東京ビッグサイト」をはじめショッピング施設や文化施設、スポーツ施設、病院などが誕生し、利便性の高いエリアへ成長した。ウォーターフロントにあることから土地の高低差がほとんどなく、ほぼフラットでアクセスできる快適性も魅力だ。

「有明埠頭橋」付近から望む「東京ビッグサイト」

日本の経済成長を支えた埋め立て地

江戸開府当初から防衛と交通の要衝である江戸・東京の湾岸地域。沿岸部の埋立ては江戸期より始まり、徐々に沖へと拡大した。明治期になると工業が発達し、多くの住民も暮らす町として発達。昭和初期以降、埋立て地はさらに拡大した。豊洲には「東京石川島造船所」の新工場が設置されたほか、戦時中は軍の施設として利用されていた。東京の湾岸地域は戦後も、エネルギー基地や工業地、貯木場、物流基地などとして、日本・東京の高度経済成長を支えてきた。

「有明地区」の発展

埋立ては1931(昭和6)年から「東京港修築事業計画」によって始まり、住居表示制度実施により1968(昭和43)年の有明となった。「有明の月」(夜が明けても空に残る月)から採られた地名で、隣接する「東雲(しののめ)」(明け方にたなびく雲の意)とともに、朝の希望を感じさせる地名が付けられた。写真は昭和30年代の様子だ。1980年代後半まで、有明は主に工業地(写真下部)であった。また、一丁目の北側の海面一帯は「有明貯木場」(写真中央部)となっていた。

昭和30年代の「有明」写真 提供:東京都港湾振興協会

「東京港」の貨物専用鉄道

1941(昭和16)年の「東京港」開港時から、整備が進められた「東京港」の貨物専用鉄道。戦後になってから、正式に開業した。「豊洲石炭埠頭」が供用開始となった1950(昭和25)年、そして1953(昭和28)年には「東京港貨物専用鉄道」の深川線、越中島・豊洲石炭埠頭間が開業した。1955(昭和30)年に豊洲物揚場(ものあげば)線の一部区間が、1957(昭和32)年には晴海線についても開通した。写真は開通日の晴海線の様子だ。

1957(昭和32)年開通日の晴海線の様子 写真提供:東京都港湾振興協会

幻の「日本万国博覧会」

1929(昭和4)年、民間からの建議により、皇紀(紀元)二千六百年の奉祝行事として、1940(昭和15)年に「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」(以下「万博」)を開催することになった。メイン会場は晴海と豊洲。そのほか、「台場公園」、「東京港防波堤」、さらには横浜市の「山下公園」などを会場とする計画があった。しかし、1937(昭和12)年に開戦した「日中戦争」が長期化。すると中止論が高まり、翌年7月になって開催延期が決定した。

1938(昭和13)年、人気絵師、吉田初三郎が描いた鳥瞰図 生田誠氏提供

本記事は、(株)ココロマチが情報収集し、作成したものです。
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